ここに写っているのは、墓地通りに並ぶパンフィレーとデメトリアの墓。屋外に置かれているのはレプリカで、本物は遺跡併設の博物館内で見ることができる。
現在「ケラメイコス」(日本では、伝統的な古典ギリシャ語読みで「ケラメイコス」と読まれることが多いが、現代ギリシャ語ではケラミコス)と呼ばれている遺跡は、古代アテネの墓地があった場所である。この名前は、この遺跡のある一帯が「ケラメイス」というデーメー(行政区分の名称)だったことに由来する。この「ケラメイス」の名は、陶工の守り神「ケラモス」に由来している。
この遺跡の敷地内には「聖門」と「ディピュロン門」という古代アテネの二つの門あり、これらに付随したモニュメントを見ることができる。また、アテネからピレアスに続く道に墓地が並んでいた様子が再現されている。遺跡内にあるオーバーレンダー博物館には、この遺跡とその周辺から出土したアテネの葬送モニュメントや陶器が集められている(入場料は遺跡の入場料に込み)。
情報 (2005年夏現在)古代には、エリダノス川が流れる谷の一番低い場所に位置していた。現在でも、亀や蛙の沢山いる湿地帯になっている。この一帯が墓地として使われ始めたのは、紀元前三千年期の終わりごろ。幾何学文様時代(前900から前700年ごろ)には、手の込んだ墓標モニュメントが置かれるようになり、その代表がアテネ国立考古学博物館に所蔵されている「ディピュロン・アンフォラ」である。このアンフォラは前八世紀の半ば頃のもので、ディピュロン門近くで見つかったためこの名前があるが、当時まだディピュロン門はなかった。アーカイック期、古典期を通じて、クーロス像やレリーフの入った墓石(ステライ)などさまざまな形状の大きな墓標が置かれた。
この場所の景観は、前五世紀にテミストクレスの市壁が建築されたことによって一変した。それまでアテネの市壁は簡素なものだったが、テミストクレスはこれを高く堅牢な壁に造り変え、また強固な二つの市門、「聖門」と「ディピュロン門」を造らせた。
ヘレニズム時代である前317年、ファレロンのデメトリオスが、豪華な墓石を立てることを禁止する法令を提案し、これと共にアッティカの墓石芸術が終わりを迎える。ローマ時代には再び大きな墓が復活するが、それらはほとんど残っていない。
私が2002年7月にこの遺跡を訪れた時には、ほとんど人がおらず、道の真ん中に猫の死体が転がっているという、なんとも荒涼とした場所であった。しかし、オリンピックの影響だろうか、2005年の夏に訪れた時には、ティシオ駅周辺を含め、以前よりずっときれいになっていた。オーバーレンダー博物館も整理され、2002年に新たに発掘された彫刻群の展示が追加されていた。とはいえ、アゴラやアクロポリスと比べると観光客の数は少ない。以前と比べると遺跡も博物館もずっと分かりやすくなっているので、是非訪れてみて欲しい。遺跡見物が終わったら、やはり再整備されたアポストル・パヴル通りに並んでいるカフェで一休みするとよい。
