アテネの歴史
2 アーカイック期
前1100年から前750年ごろの暗黒時代を抜けると、アーカイック期(前750年から前500年ごろ)が始まる。
八世紀になると地中海東部の文明と接触の機会が増える初め、同世紀の終わり頃には、フェニキアからアルファベットが導入され、ギリシャ・アルファベットが成立する。
前七世紀から六世紀にかけては、アテネは僭主によって統治されていた。前632年、キュロンが陰謀を企てて、僭主としての地位を奪取しようとするが失敗。この時、アルコンであったメガクレスとアルクマイオン家は、アクロポリスにあるアテナ女神の聖域に逃げたキュロンの仲間を殺害したため、アテネから追放される。これは、メガクレスの義父の都市国家であるメガラとの戦争につながった。前621年には「ドラコンの法」が制定される。
前六世紀の初め政治家ソロンが現れて、社会・経済改革を行う。問題となっていたのは貧富の差の拡大と、少数の家族による権力の独占だったようである。前570年頃、メガラからサラミス島を攻めて、征服することを計画。ペイシストラトスが指揮官に任命されて、これを成功させる。
ペイシストラトス家による僭主制時代
ペイシストラトスはこれに気をよくしてアテネの僭主となることを試み(前566年)、何度か失敗した後、前546/5年、ついに目的を遂げる。彼は有能な支配者で、アテネの繁栄期を導いた。オリュンポスのゼウス神殿や、アクロポリスのアテネ神殿の建築を始めたのは彼である。また、アテネで祝われていたディオニュシア祭を以前よりも盛大なものしに、また、パナテナイア祭をオリュンピアとデルフィの祭に並ぶ、全ギリシャ的なものにした。ペイシストラトス時代には、アテネ産の黒絵陶器が、ライバルであったコリント産の黒絵陶器以上に輸出された。前527年にペイシストラトスが死去すると、息子のヒッピアスとヒッパルコスが後を継いだが、前514年にヒッパルコスが暗殺され、前510年にヒッピアスが、アルクマイオン家のクレイステネスによって追放されて、ペイシストラトス家の支配は終わった。
ヒッピアスが追放されると、アテナイ有力者の間で内紛が起きたが、最終的にはクレイステネスが民衆の力を借りて勝ち残った。このため、クレイステネスは民衆に有利な(民主的な)改革を行うことになる(前507/6年)。これがアテナイ民主制の始まりとされる。ペルシャ戦争
前五世紀の初め、ペルシャとの関係が悪化する。前499/8年、小アジアにあるミレトス植民市のアリスタゴラスが、小アジアのギリシャ植民諸市をまとめて、ペルシャの支配に対する反乱を起こす。いわゆる、イオニア植民市の反乱である。アテネとエレトリアがこれに呼応して援軍を送るが、前494年、反乱は植民市側の敗北に終わった。
ペルシャのダレイオス王は、アテナイとエレトリアを処罰するため、ギリシャに大軍を派遣する。ペルシャ軍の案内役を引き受けたのは、二十年前に追放された僭主ヒッピアスであった。エレトリアは略奪を受けるが、将軍ミルティアデスに率いられたアテネ軍とプラタイア軍は、マラトンの戦いでペルシャを大破した。
現在のパルテノン神殿が建っている位置に最初のアテナ神殿が建て始められたのはこの頃のことで、恐らくマラトンの戦いに感謝を捧げるためだった。これまでの神殿が石灰石で造られていたのに対し、この神殿はペンテレー産の大理石を使って建てられた。しかし、この神殿が完成することはなかった。僭主制の復活を予防するため陶片追放(オストラキスモス)の制度が導入されたのも、マラトンの戦いの後である。
ダレイオスの後を継いだクセルクセスは、前480/79年、陸海を率いてギリシャに攻め込む。陸を経由してやってきた軍は、テルモピュライの戦いでレオニダス王率いるスパルタ軍を破った後、アテネを略奪し、アクロポリスにあった神殿を破壊する。しかし、海軍の方は、ペルシャ軍襲来の前にアテネを脱出して海戦に備えていたアテネ人の三段櫂船艦隊にサラミスの海戦で破れる。ペルシャ軍は最終的にプラタイアの戦いで撃破された(前479年)。
アテネ市とアッティカはペルシャ軍の破壊行為のため、あらゆる建造物を再建する必要にせまられることになった。このため、アテネには新たな建築と芸術のスタイルが生まれる。このため、現代の美術史家・歴史家はこの時を境としてアテネのアーカイック期と古典期を分けている。