アテネの歴史
7 ビザンツ時代
ビザンツ初期
580年ごろ、スラブ人の侵入で大きな被害を受ける。その後、打撃からなかなか回復できず、都市の規模も縮小する。
662年、シチリアに向かう途中の皇帝コンスタンス二世が冬の間アテネで宿営を張る。
後にカンタベリー司教となるタルソスのテオドロス(669−690年)は、一時アテネで勉強しているところから考え、アテネは学問の中心地としての地位を少なくともある程度は保っていたと考えられる。
ビザンツ中期
1018年、「ブルガル人の殺害者」との異名を取る皇帝バシレイオス二世が、ブルガル人に対する戦勝を祝うためアテネを訪れ、数々の戦利品をアテネに贈った。また、損傷の激しい建物を修理することを命じた。
十一世紀の学者で、政治家でもあるミカエリス・プセッロスは、政府がギリシャを軽視していることや、総督たちの悪政を批判している。
ビザンツ後期
十二世紀前半、アラブ人の旅行家で地理学者であるイドリーシはシチリア王国のルッジェーロ二世に、アテネは大きな人口を擁し、庭園と畑に囲まれていると書き送った。しかし、同じ世紀の後半にアテネは衰退していったようである。
1182年(1175年、1180年との説もある)、ミハエリス・ホニアテス(Michaelis Choniates "Akominatos" 有名な歴史家ニケタス・ホニアテスとは兄弟で、コニアテスとも書かれる)がアテネの大主教になる。当時、アテネの人口は数千人程度で、同じギリシャのコリントスやテーベよりも小さな町だった。当時のアテネ市民はアッティカ方言を話しており、ホニアテスは、これを十分理解できるまで三年かかったと述べている。1204年に十字軍がアテネを征服するまで、ホニアテスは主教職を務めた。
政府の総督praetorがアテネに軍隊をつれて来ることは、皇帝の金印勅書で禁じられていたため、アテネの住民は強制宿舎割り当ての義務を免れた。しかし、アテネは海賊征伐を名目とした船と資金の徴発をしばしば受け、ナウプリオを本拠地とする有力者レオン・スグーロス(León Sgourós)からも、強制的な奉納を求められた。スグーロスは1204年にアテネを攻撃して、市民がアクロポリスに篭城する間、当時の中心的な居住区であったアゴラ周辺を焼き払ったことでも知られる。
アテネに残るビザンツ時代のモニュメントに関してはこちらを参照。