アテネの歴史
3 古典期
第三次ペルシャ戦争
ペルシャを打ち破ったアテネは、ギリシャの盟主の地位を獲得し、デロス同盟を通じて、他のポリスを事実上その支配下に置く。デロス同盟はもともと、外敵と戦うためギリシャの諸ポリスが軍艦を提供するという仕組みであったが、アテネは船の代わりに金銭を要求するようになり、前454年、同盟の金庫がデロス島からアテネのアクロポリスに移されることで、事実上、諸ポリスがアテネに朝貢金を支払う状態になっていったのである。
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| ピレアスに立つテミストクレスの銅像(現代の作品) |
アテネはテミストクレスの指揮の下、全長6.5キロメートルに及ぶ新たな防衛壁の建築に着手する。トゥキュディデスは、アテネが女性や子供の手まで借りて、使える材料は何でも使って大急ぎで市壁を建設したと伝えている(1.90, 93)。この市壁は前三世紀まで使われ続けた。
ペロポネソス戦争
第一次ペロポネソス戦争は、アテネとその同盟市に対する、コリント、エギナ、ボイオティア、スパルタの戦いであった。前458年、タナグラの戦いでアテネとスパルタが衝突、前445年には、アテネとスパルタの間に三十年平和条約が結ばれた。
前431年から421年の第二次ペロポネソス戦争は、アテネの政治家ツキュディデスの『戦史』に記録されている。この時期、アテネは偉大な政治家ペリクレスに指導されて黄金時代を迎えた。その最も雄弁な証明は、フェイディアス指揮によるアクロポリスの再建事業であろう。しかし、アテネが敵軍に包囲されている間に流行したペストでペリクレス(前429年死去)を初めとする多くの市民を失った。前424年のデリオンの戦いでアテネは敗北し、前421年に結ばれたニキアスの和で第二次ペロポネソス戦争は終結する。
第三次ペロポネソス戦争では、アテネの政治家アルキビアデスの主導で行ったシチリア遠征(前415年から前414年)が失敗に終わり、また、前405/4年、ヘレスポントスのアイゴスポタモイの戦いでは、アテネ海軍がスパルタのリュサンドロス王に大敗北を喫する。前404年アテネでは、親スパルタ派からなる「三十人僭主」が寡頭政治を敷くが、翌年、トラシュブロスが民主制を回復させる。ソクラテスが死刑になったのはこの時代(前399年)である。
マケドニアの台頭まで
ペロポネソス戦争後、アテネの国力は回復し、前394年には、アテネの将軍コノンが、クニドスの戦いでスパルタに勝利した。前378/7年には第二次海上同盟を組織して、「帝国」を再編成する。
ソクラテスの弟子であるプラトンやクセノフォンが活躍したのはこの時代である。
