アテネの歴史
4 ヘレニズム時代
マケドニアの台頭
前四世紀、ギリシャ北部のマケドニアが、フィリッポス二世王の時代に支配域を拡大し、ギリシャ諸ポリスの自治に脅威となる。アテネの政治家で雄弁家のデモステネスは、その有名な『フィリッピカ』演説で、マケドニアに武力で立ち向かうことを主張する。前346年、アテネはフィリッポスに生徒和平条約を結ぶが、340年には宣戦布告する。しかし、前338年夏、アテネはカイロネイアの戦いで敗北し、マケドニアの支配下に入る。この戦いで、戦死者と捕虜になった者をあわせて、アテネは成人男性人口の一割ほどを失ったらしい。しかし、内政における自治権は講和条約で保証された。
カイロネイアでの敗北の後、アテネはデモステネス、リュクルゴス、デマデス、ヒュペレイデスという有能な四人の政治家によって指導される。特に、338年から324年までは「リュクルゴスの時代」と呼ばれ、アテネは文化的にも、経済的にも安定した繁栄を保った。
アレクサンダー大王の教育係であったアリストテレスはアテネのリュカイオンで教えたのはこの時代。彼の著作であると考えられている『アテナイ人の国制(Athenaion Politeia)』は、335年から330年の間に書かれた。
ヘレニズム諸王の時代
336年フィリッポス二世がアイガイで暗殺されると、マケドニア王国はアレクサンドロス大王によって継承された。前323年、アレクサンドロスが後継者のないまま死去すると、アテネは、アイトリア、フォキス、ロクリ、アカイアのシキュオン、スパルタを除くペロポネソス諸都市と手を組んで、323年、マケドニアの代官アンティパテルと戦う。しかし、322年、ラミアの包囲戦、テッサリアのクラノン近郊の戦いで敗北し、また、海上でも、322年、ヘレスポントスのアビュドスとキュクラデスのアモルゴス沖の戦いで、アテネ海軍はマケドニア海軍に撃破された。
その結果、アテネはマケドニアに全面降伏し、当初から戦争に反対していたデマデスとフォキオンがアテネの指導者となった。デマデスは、戦争を推進したデモステネスとヒュペレイデスに死刑判決を下させ、二人は逃亡先のペロポネソスで殺害された。また、講和条約の一環として、ピラエウスのムニュキアの丘にある要塞に、マケドニア軍が進駐することとなった。アテネの艦隊は破壊され、以降も、アテネが海上覇権を取り戻すことはなかった。
319年、デマデスは、ピレアスの進駐軍を引き上げてくれることを上申するため、ペッラにあるアンティパテルの宮廷を訪れる。しかし、アンティパテルは、デマデスがペルディッカス(プトレマイオスとの戦争に敗れてすでに死去)に、ギリシャを解放してくれるように求めた書簡を入手していたため、反逆者として彼を処刑させた。その後間もなく、アンティパテルが死去し、息子カッサンドロスと摂政のポリュペルコンがマケドニアの支配を巡って対立する。318年春、アテネは、この混乱に乗じて一年間ほど独立を回復する。しかし、カッサンドロスは、小アジアのアンティゴノス、エジプトのプトレマイオスの援助を受けて、ポリュペルコンを追い落とし、アテネの独立は終わる。マケドニアの支配者となったカッサンドロスは、317年夏、アリストテレスのアカデミアで学んだファレロンのデメトリオスを総督に任命する。
デメトリオスは市民に豪奢を禁じる法令を出した。これにより、宴会に呼べる招待客の数は30人に制限され、また、芸術的な彫刻を施した墓石の使用は禁じられた。また、富裕な市民が個人財産を使って国家に奉仕する制度の一部を廃止し、例えば、演劇のスポンサー「コレゴス」制度は、国家から出費を払い戻してもらえる「アゴノテテス」制度に置き換えられた。エレウシスのデメテルとコレ神殿前の列柱廊は、彼の時代に、建築家エレウシスのフィロ監督下で建設された。著名な喜劇作家メナンドロスは、彼と交流があった。デメトリオスの支配は、307年に、アンティゴノス一世の息子デメトリオス・ポリオルケテスがアテネを奪取して終わりを迎えた。その後、ファレロンのデメトリオスはカッサンドラの宮廷に亡命し、王の死後はエジプトのアレクサンドリアに迎えられて、王の顧問の一人となった。
デメトリオス・ポリオルケテスはアテネの独立を宣言し、アテネにも、ピラエウスにも進駐軍を置かないことを約束する。317年に廃止された民主制が復活させられ、ファレロンのデメトリオス時代、アテネの支配に携わった主な市民の多くは亡命した。シリア・小アジア・エーゲ海の島々に拠点を持つアンティゴノスと同盟したことで、アテネはイオニアの都市との関係を復活させた。この時代、アテネは名目上の独立は保ちながらも、事実上はデメトリオスの独裁下にあった。
301年、イプソスの戦いでアンティゴノスとデメトリオスの軍が、セレウコスとリュシマコスに敗れると、アテネ市民は、デメトリオスが戻って来ても市内に受け入れないことを決議する。しかし、アテネではラカレスによる独裁に対する不満で、市民の結束が失われ、295年には再びデメトリオス・ポリオルケテスの支配を受け入れ、メトリオスの支配は287年、キモンがアルコンの年まで続いた。アテネの独立は25年間続くが、ピラエウスは、229年に至るまで、マケドニアの支配下に留まった。
アテネが独立を回復できたのは、プトレマイオス一世ソテルの後ろ盾があったからであるが、283年に彼が死んだ後も、息子のプトレマイオス二世がアテネとの同盟を続けた。
アテネは、マケドニアのアンティゴノス二世ゴナタスに戦いを挑む。アテネと同盟を組んでいたのは、プトレマイオス二世フィラデルフォスと、アレオス一世のスパルタであった。戦いの発端となったのが、アテネのアルコンクレモニデスが提案した法案(268年)であったため、この戦争は「クレモニデス戦争」と呼ばれる。265/4年、コリントス近くでの戦いで、スパルタはアンティゴノスに破れ、アレオス王は敗死する。アテネも、包囲戦の結果敗北し、263/2年、アンティゴノスはアテネに進駐軍を置いた。
アンティゴノスは、アテネに全権を委任した代官を置いたようであるが、この人物の名前を含め、詳しいことは分かっていないが、Christian Habicht(cf.「参照文献」)は、ファレロンのデメトリオス(同名の代官の孫)がこの人物だと考えている。前255年ごろ、王はアテネに「自由を付与した(Eusebius, Chronica)」と伝えられているが、これはおそらく、代官による独裁を廃し、進駐軍を撤退させたことを意味し、独立させたという意味ではないであろう。クレモニデス戦争から前229年の解放まで、アテネに関する資料は極めて少ない。
前229年、デメトリオス二世は死去し、まだ九歳の息子フィリッポスを後継者として残す。このためマケドニアに生じた混乱を利用して、アテネは無血で独立を勝ち取る。アッティカの代官であったディオゲネスは、ピラエウス、サラミス、ムニュキアとラムノスの要塞をアテネに引き渡す。この時アテネの指導者だったのは、ケフィシアのエイリュクレイデスとミキオン兄弟。当時、ギリシャはアイトリア、アカイア、スパルタ、マケドニアの勢力が戦いを繰り広げていたが、プトレマイオス朝エジプトを後ろ盾にしたアテネは、中立を守った。
211/0年、マケドニアとアイトリアの戦争に、ペルガモンのアッタロス一世、エリス、メッセネ、スパルタがアイトリア側について参戦し、またアイトリアと同盟関係にあったローマのプロコンスル、スルピキウス・ガルバが、エギナ等を略奪して、アイトリアに引渡し、さらにアイトリアがこれをアッタロスに売り渡した。
201年、マケドニアと同盟関係にあるアカルナニアとの関係が悪化したことをきっかけに、アテネにマケドニアからの圧力が高まり、何らかの対策を取らねばならなくなった。アテネは、エジプトに支援を求めるが、当時プトレマイオス朝では、幼い国王プトレマイオス五世エピファネスの治下、激しい権力闘争が起きており、期待するような反応を得られなかった。このため、アテネはマケドニアの反対勢力、アッタロス、ローマ、ロードスの側につき、前200年、フィリッポスに宣戦を布告した。この時、マケドニアの支配者にちなんで創設された二つの部族アンティゴニスとデメトリアスが廃止され、デメトリオス・ポリオルケテスの黄金の騎馬像が破壊された。その少し後に、同盟国であるペルガモン王アッタロス一世を称えて「アッタリス」部族が創設された。
アテネはマケドニアに宣戦布告したものの、必要な武力はほとんど持っておらず、フィリッポスの将軍ニカノルとフィロクレスが北から、また、マケドニアのコリント駐在軍がメガラ方面から攻め込んでも、防衛することすらおぼつかなかった。ローマのコンスル、スルピキウス・ガルバが兵を連れてエピロスのアポロニアに上陸すると、アテネは彼に援助を依頼し、ローマ軍の力でマケドニアの脅威を免れた。フィリッポス王は再び攻撃を試みるが、アテネの傭兵部隊、アッタロスからの援軍、ピラエウスに駐在するローマ軍に阻止された。この、第二次マケドニア戦争は、ローマが勝利して終了した。その後も、アテネはローマの忠実な同盟国として、ローマからの保護を受けた。
168年、ピュドナの戦いでマケドニアのペルセウス王を破ったコンスル、ルキウス・アエミリウス・パウッルスがアテネを訪れる。彼は、アテネ人に、自分の息子たちのために最も優れた哲学者と、ローまでの凱旋式を記念した絵画を描いてくれる画家を貸して欲しいと求め、アテネ人は両方の分野で優れたメトロドロスを選んだと伝えられている。
ヘレニズム時代、アテネは外部からの支配を受けながらも、その国制は驚くほど安定しており、アレクサンドロスの時代からマルクス・アントニウスまでの300年間、ほとんど同じシステムを保持した。
ローマ時代のアテネに進む
戻る