アテネの歴史
10 独立戦争時代
1821年3月25日、パトラス大主教ゲルマノスが北ペロポネソスのアギア・ラヴラ修道院で叛旗を翻して、ギリシャ独立戦争が始まる。ギリシャ系市民は武器を没収されていたが、パナギス・スクゼスPanagis Skouzesがイタリアから武器を密輸して市民を武装させた。スクゼスの家族はもともと裕福であったが、悪徳総督ハジ・アリ・ハセキHadji Ali Haseki(cf. ハセキの壁)の強欲によって破滅させられていた。
反乱がアッティカに広がると、アテネ市民は家族をサラミナ島に避難させた。反乱軍がアテネに近づくと、600人ほどいたトルコ兵は貴重品を持って家族と共にアクロポリスに立て籠もった。ギリシャ反乱軍は5月7日にアテネに到着、すぐに市を制圧し、アクロポリス攻略を始めた。アクロポリスのトルコ軍は飢えと乾きに苦しみながら持ちこたえ、7月か8月初めに到着したヨハンニナ太守(パシャ)オマル・ヴリオニOmar Vrioni率いるトルコ軍によって救われた。ヴリオニは「ギリシャ人狩り」という残虐な遊びに興じたと伝えられている。ヴリオニは、エピロス鎮圧に向かわなければならなかったのでアテネには長居せず、アクロポリスに十分な食糧を残して11月頃立ち去った。
ヴリオニの軍が立ち去ると、ギリシャ人は避難先のエギナやサラミスから戻って来た。最初の交戦で、ギリシャ人は、アクロポリス南側の水源を押さえることに成功した。古代にはアクロポリスの頂上にも井戸があったのだが、当時これはもう使われておらず、トルコ軍にとってはこれが唯一の水源だった。翌1822年の6月、水が枯渇したトルコ軍は投降を申し入れる。ギリシャ人は、トルコ軍が財産半分と武器を放棄することを条件としてこれを受け入れ、トルコ兵とその家族は中立国の船で小アジアに輸送されることになった。しかし、トルコ人はギリシャ人を信用できなかったので、オーストリア、ロシア、フランスのアテネ駐在コンスルが証人となることを求めた。そして、アテネ大主教は、聖職者、ギリシャ人兵士、政治的指導者に降服の条件を守ることを宣誓させた。
にもかかわらず、避難用の船がピレアスに入港する数日前、トルコ軍がアテネ近づいているという噂が引き金になって、トルコ人の虐殺が始まる。この時アテネにいたスコットランド人ジョージ・フィンライGeorge Finlayによれば、朝から晩まで、400人から700人に登るトルコ兵とその妻子が虐殺されたという。フランスの軍艦が一部のトルコ人を避難させたが、残りはギリシャ人によってサラミナ島に連れて行かれ、そこでなぶり殺しにされた。
虐殺が終わると、ギリシャ人の間で「戦利品」の取り合いが始まる。トルコ人が持っていた貴重品を誰がどれだけ手に入れるかを巡って、ギリシャ人の間で折り合いがつかず、互いの間で不信感が増す。ギリシャ軍の司令官は事態の収拾を図るため、ディミトリオス・イプシラディス(もしくは、イプシランディス Demetrius Ypsilantis)に、アクロポリスの指揮を引き継いでくれるよう要請するが、兵士たちはこれを受け入れず、有名なゲリラ戦のリーダーでペロポネソスの臨時政府と対立していたオディセウス・アンドルツォスOdysseus Androutsosを指揮官に祭り上げる。エピロス出身で、アリ・パシャの親衛隊の一人であったアンドルツォスは9月初めアテネに到着、アテネの駐屯軍を再組織し、数年間持ちこたえられるだけの食糧と武器を備蓄する。そして、アクロポリスの防壁を拡張して、井戸が防衛壁の中に入るようにした。
アンドルツォスは、やがてアテネを副官グーラスに任せ、トルコ軍と戦うためエウボイアに向かう。しかし、彼は、ペロポネソスに成立した新政府と仲違いし、反対派に組する。ペロポネソス政府と戦うため、彼は、エウボイアのトルコ軍と停戦協定を結び、その上、トルコの騎兵を雇い入れた。1825年の春、アンドルツォスはいくつかのアッティカの村を掠奪して回り、ついにはアテネに向かう。彼の副官グーラスはペロポネソス政府を支持していたため、アンドルツォスに従わず、逆に彼を捕虜にする。アンドルツォスは、しばらくの間アクロポリスにあったフランク時代の塔に幽閉されていたが、裁判を前にして、6月16日グーラスの命令で殺害された。
1826年、ギリシャ人は、ギリシャ人同士の戦争に明け暮れる。ペロポネソス半島はほとんど、イブラヒム・パシャ率いるエジプト軍に奪われ、ギリシャ人の勢力範囲はコリントス周辺、アッティカ、サロニコス湾のいくつかの島だけに縮小した。このため、ギリシャ人の勢力圏で一番東に位置するアクロポリスの要塞は戦略的に非常に重要なものとなった。しかし、グーラスは強欲な人物だったので、アッティカ住民の支持を得られず、7月に、レシッド・パシャとオマル・ヴリオニ率いるトルコ軍がアッティカに姿を現すと、アッティカの人々は彼らを解放者として受け入れ、アテネ近くのいくつかの村がトルコ軍に下った。
グーラスは敵と戦おうとはせず、十分な備蓄のあるアクロポリスに400の兵士と共に立て籠もる。このためアテネ市の防衛は、市の司令官ヨアンニス・マクリヤンニスと、二人のアテネ市民シモン・ザカリツァス、ネルーツァス・メツェロスが担った。
マクリヤンニス(背が高かったため「のっぽのヤンニス(マクリヤンニス)」というあだ名がつけられたという)は1797年、中部ギリシャの農家に生まれた。彼の父親は、彼が幼い頃トルコ人に殺害された。独立戦争が始まるとすぐ、彼はギリシャ軍に参加、1824年から25年にかけての内紛の間も一貫してペロポネソス政府を支持した。
アテネのギリシャ人は四十日にわたって勇敢に戦ったが、8月、数でも装備でも圧倒的に勝っていたトルコ軍に屈服した。生き残ったマクリヤンニスと市民はアクロポリスに退避した。ギリシャ人同士の争いが続く中、劣勢に置かれたペロポネソスのギリシャ政府は、アテネのアクロポリスを死守することを決意、フランス人でギリシャ義勇軍の大佐シャルル・ファビエCharles Fabvierの指揮下、サラミナ島で募兵した正規軍と、中央ギリシャの司令官ヨルゴス・カライスカキスの指揮下、2,500人の臨時兵部隊をアテネに送った。
カライスカキスは1782年、修道院を逃げ出した修道女とカライスカキス村に住むルメリの部族長の間に生まれた。彼は、ゲリラ軍の指揮官となり、ギリシャの独立のために戦った。
ファビエとカライスカキスは最初、ピレアスからトルコ軍に攻撃を仕掛けるが、作戦は失敗、二人の軍はサラミナに退却する。二人は失敗の責任を互いになすりつけ合った。
アクロポリスの中では士気が低下し、10月の初め、グーラスの兵士の一部がトルコ軍に投降する。また、10月13日、グーラス自身も流れ弾に当たって死去する。ペロポネソスから司令官が派遣されてくるまで、グーラスの未亡人アシモとマクリヤンニスを含む五人の臨時委員会が組織される。グーラスの死後6日目に起きた激戦の結果、ギリシャ軍は勝利をおさめるが、両軍に大きな被害を出し、マクリヤンニスも生死に関わる重症を負う。
ギリシャ臨時政府は、駐屯軍からの求めに応じて450人の援軍を派遣し、アクロポリスの中に送り込むことに成功するが、状況は好転せず、やがて弾薬や医薬品の備蓄が尽き始める。11月の終わり、まだ傷の癒えていなかったマクリヤンニスとその護衛の5人が、アクロポリスを脱出して、エギナの政府に状況を報告することになる。護衛の一人を除く5人が、戦線を突破することに成功、エレウシスからエギナに渡り、政府と交渉する。政府からの命を受けたマクリヤンニスは、今度は、メタナにいたファビエの元に向かい、軍を再組織して、アクロポリスに弾薬を補給してくれるよう説得する。ファビエは、アクロポリスに留まらず、すぐに退却することを条件に、この依頼を受け入れた。
12月、ファビエは500人の正規兵とギリシャ義勇軍に弾薬を背負わせて、アクロポリスに忍び込ませることに成功するが、退却する時になって、駐屯軍とトルコ軍の間に小競り合いがおき、ファビエらはアクロポリスに留まることを余儀なくされる。ファビエは、駐屯軍がわざと騒ぎ立てたのではないかと疑って激怒する。
ファビエがアクロポリスで足止めされている間、もう一人のギリシャ独立支持者で、ギリシャ独立戦争に志願兵として参加していた英国海軍の将校フランク・アブニー・ヘイスティングス(Frank Abney Hastings)が、自分の蒸気船(蒸気機関を使った戦艦は当時の最新テクノロジーだった)「カルテリア号(Kartería=堅忍不抜)」で1827年ピレアスに到着する。そして、サラミナとエレフシナに集められた二つの部隊が、カルテリア号から援護射撃を受けながら、トルコ軍に攻撃を仕掛けるという作戦が立てられた。1827年2月5日に決行されたこの作戦は、ギリシャ独立義勇兵ゴードンに率いられていた非正規兵が命令に反して銃を発射し、トルコ軍の注意をひきつけてしまい失敗。エレウシスの方も、トルコ騎兵隊に蹴散らされてしまう。ラシッド・パシャは、殺したギリシャ人の首をアテネに持ち帰り、アクロポリス籠城軍に見せ付けた。
1827年3月、新たな陸海最高司令官に任命されたイギリス人サー・リチャード・チャーチ将軍とロード・コクレーン海軍総督が到着する。18,000人の兵士がピレアス、ファリロ、メガラに集められた。そのうち、5,000人(3,000人という説もあり)はカライスカキス率いる非正規兵だった。カライスカキスは、アテネ周辺で活動して、トルコ軍の通信を妨害したり、補給が届くのを邪魔したりしていた。ゴードン大佐とマクリヤンニスは4,000人を指揮、チャーチ将軍はメガラの4,000人を、コロコトロニスは、息子ゲンナイオスに指揮された3,000人の分遣隊を派遣していた。
4月24日、チャーチは彼の軍を船に乗せ、メガラからファリロに動かす。そして次の日、彼はカライスカキスと合流して攻撃を仕掛ける。カライスカキスの軍は、アギオス・スピリドン修道院で、190人のイスラム教徒アルバニア人に進軍を阻止される。しかし、アルバニア兵は、カルテイア号から激しい砲撃を受けたため、武器と財産を保障されることを条件に降服した。ところが、ギリシャの非正規兵は、アルバニア人の所有物を目当てに虐殺を始め、100人以上が虐殺される。また、ギリシャ人同士での戦利品の奪い合いで、軍紀は大いに乱れた。ゴードンは、ついに愛想をつかして、ギリシャから去ってしまう。チャーチも辞任しようとするが、カライスカキスが涙ながらに引き止めて、なんとか翻意させた。その10日ほど後の5月4日、カライスカキスは待ち伏せにあって命を落とす。
カライスカキスは、自分が死んでも、前進するように遺言していたが、彼が指揮していた兵士の意気は阻喪し、軍紀も乱れていたため、チャーチとマクリヤンニスは、コクレーンに作戦の延期を求めた。しかし、コクレーンはこれを受け入れず、5月5日に作戦は決行された。
予定では、まだ暗いうちにトルコ軍に近づいて奇襲を仕掛ける予定だった。にもかかわらず、上陸準備が不十分であったため、夜が明けたときには、ギリシャ軍はまだアクロポリスと海との間にいた。このため、ギリシャ軍は明るい中で、十分に準備のできたトルコ軍と交戦することになる。この戦いで、1,500人のギリシャ人と、26人中22人のギリシャ義勇兵が命を落とした。240人のギリシャ人が捕虜となったが、そのほとんどが、アギオス・スピリドンでの虐殺に対する報復として殺害された。ギリシャ軍の被害がこの程度に留まったのは、日が暮れて、海に向かって逃げるギリシャ人の追撃をトルコ軍が断念したためである。これは、ギリシャ独立戦争で最も深刻な敗北となった。
この戦いの後、コクレーンはポーロスに退却し、そこからヨーロッパの海軍司令官たちに対し、もうアクロポリスを救済する手段はなくなったので、せめて虐殺を避ける手段をとって欲しいと依頼する書簡を送る。彼はこの中で、自分の見込みの甘さと判断の誤りを棚に上げて、ギリシャ人の卑怯さだけを非難している。
コクレーンは、アクロポリス救済が不可能であると見ていたので、チャーチを通じて、駐屯軍に降服交渉を始めるよう勧める。ファビエは、自分の親戚で、フランス海軍の指揮官であったド・リニーを仲介役にして降服の条件を交渉し、1827年6月5日に交渉がまとまった。ギリシャ人と義勇兵たちは、女子供と共に、武器と装備を持ってアクロポリスを下りた。しかし、その中にグーラスの未亡人アシモの姿はなかった。同じ年の初め、彼女が生活していたエレクテイオンに砲弾が落ちた時、命を失っていたのである。ギリシャ兵が退避する間、トルコ兵が攻撃を仕掛けることはなかった。ギリシャ人の安全を保障した降服条件を守ったラシッド・パシャに対し、マクリヤンニスは賞賛の言葉を残している。
アテネの町に住んでいたギリシャ人はエギナ、ポーロス、サラミナ、ペロポネソスに避難しており、町に残っているのは貧しいトルコ人だけになった。アクロポリス陥落は、ギリシャ人にとって、精神的に大きな打撃だったた。コリントスより北で、トルコに対抗している者はもうだれもいなかった。にもかかわらず、ギリシャの独立は、ギリシャ人のいないところで進んでゆく。
1827年10月、ナヴァリーノ戦いで、エジプト艦隊が、イギリス、フランツ、ロシアの海軍と戦って撃沈される。これが、ギリシャの独立を保障することとなった。前年の4月、イギリスとロシアは「サンクト・ペテルブルグのプロトコール」によって、トルコの宗主権の下で、ギリシャを小さな独立王国にすることを決めていた。その国境についてははっきり決められておらず、アテネがその一部のなるかも不透明だった。1827年7月、イギリス、フランス、ロシアが調印し、ギリシャ人もこれを受け入れたロンドン条約にアテネの名前はない。この曖昧な状況は、チャーチ将軍がギリシャ軍を再編してコリント湾の北を征服し終え、ディミトリス・イプシラディスがボイオティアとアッティカの大部分を手に入れていた5年後にもまだ続いていた。
1832年5月、バイエルンと三宗主国(イギリス、フランス、ロシア)の間で結ばれたロンドン協定で、ついにアテネを含む拡大ギリシャ独立王国が成立した。オスマン帝国はこれを受け入れざるを得なかった。しかし、まだその時になってもアクロポリスはトルコ軍に占拠されたままであり、1833年3月31日にようやくバイエルン軍が、疲弊したトルコ駐屯軍かアクロポリスを引き渡された。251年に渡る西欧人(ラテン人、フランク人)の支配、365年に渡るトルコ人の支配、8年間に渡る戦争を経て、アテネはついにギリシャ人の手に戻された。しかし、独立の意味を、ギリシャ人によるギリシャの支配と言う意味で捉えるならば、これは名目的な独立に過ぎなかった。
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