アテネの歴史
5 ローマ時代
ローマ共和政期
前229年、アテネはローマおよびペルガモンの王と同盟を結ぶことで、独立を取り戻す。
前171年、ローマがマケドニアのペルセウス王に宣戦、前168年ピュドナの戦いで勝利したことで、ギリシャを含むマケドニア王国はローマの支配下に入る。ピュドナの戦いから二世紀終わりまでの六十五年間、アテネは繁栄を取り戻す。その理由は、アテネと、アテネが支配するデロス島が、イタリアと属州アシアの交易の拠点となったことあった。二世紀の半ば、アテネで最も有力だったのは、農業経営を行う大土地所有たちであったが、二世紀が終わる頃には、デロスに拠点を持つ、商工・運輸業者たちが新たな支配階層となっていた。アテネとデロスには、イタリアからの移住者が増え、アテネの外国人居住者一般も増加した。前146年にはギリシャの南部がローマのアカイア属州となり、アテネはその一部になる。
しかし、前89年に始まる、ポントス王ミトリダテス六世とローマの戦い(ミトリダテス戦争)で、アテネはミトリダテス側に付いた。この時代の歴史は、ポシドニオスによって記録されているが、なぜアテネがローマとの同盟を破棄するに到ったのかについては十分に明らかではない。アテネでは、アテニオンという名の弁論家が、反ローマの世論を作り上げ、ローマとの同盟維持を支持していたアカデメイアの校長、ラリッサノフィロンはアテネに亡命している。
ミトリダテスは、将軍アルケラオス率いる軍隊を派遣して、ギリシャ本土とエーゲ海の島々を確保しようとする。アルケラオスはデロス島を制圧し、そこで2万人のローマ人とイタリア人を殺害したと伝えられる。さらに、アポッロン神殿の財宝を没収し、取り巻きの一人のアテネ人、アリスティオンにこの財宝と2000人の兵士を与え、アテネに派遣する。アテネに到着したアリスティオンは、アテニオンを追い落として支配者となったらしく、彼の名前は歴史上から消える。アルケラオスとアリスティオンはギリシャと島々の大部分を制圧し、ピラエウスは、アルケラオスの基地となった。ローマはコルネリウス・スッラに大軍をつけてアテネに派遣し、包囲戦の末、前86年春、ピラエウス門と聖門の間の市壁を突破して、アテネを制圧、多くの市民を虐殺した。アリスティオンはしばらくの間、アクロポリスの立て籠もったが、スッラの指揮官スクリボニウス・クリオに降り、処刑された。他方、スッラはピラエウスのアリスタルコスを攻め、アリスタルコスは船で逃亡した。
この戦争で、アテネは多くの市民を失うと共に、建造物、芸術品、神殿に奉納されていた財宝などを失った。アテネの政治は、ローマに友好的なオリガルキーの手に戻されたが、ローマからそれ以上の罰を受けることはなかった。キケロの文通相手として知られるアッティクス(ティトス・ポンポニウス)は、スッラがアテネを奪取した後、アテネにやって来て、ここに住み着いた。彼は、商才に長けた富裕なローマ人で、アテネの復興にさまざまな形で手を貸した。
その後、ローマの市民戦争で、アテネはポンペイウス側に付いたにもかかわらず、ユリウス・カエサルから恩赦を受け、さらにその後には、カエサルを暗殺したブルトゥス(ブルータス)に付いたにもかかわらず、マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスから恩赦を受けている。カエサルとアウグストゥスは、「ローマ時代のアゴラ」建設に資金を提供した。
帝政期
後54年、聖パウロがアテネで布教を行う(『使徒行伝』XVII 22)。
ハドリアヌス帝(在位117年から38年)は、131/2年、アテネをギリシャ諸都市の連合「パンヘレニオン」の首都とし、盛んに建築活動を行う。
二世紀、大変富裕な人物ヘロデス・アッティコスが、アテネで建築活動を行う。