ギリシャの歴史
3 古典期
古典期
ペルシャ戦争が終わった前479年から、ギリシャがマケドニア軍に敗北する前338/7年までが古典期と呼ばれる。
前478年、アテネは、ペルシャ、エジプト、キプロスといった外敵に備えるという口実で、ギリシャの諸都市をデロス同盟に加入させる。そして前469年にはエウリュメドンの戦いで、再びギリシャがペルシャに勝利する。前450年頃には戦争の危機は去るが、アテネは加盟都市から分担金を集め続け、前454年には同盟の金庫がデロスからアテネに移されて、同盟は事実上アテネへの朝貢システムのようになる。ペリクレスが指導者だった時代、アテネはこの金を使って、アクロポリスのパルテノン神殿を建築した。
アテネの成長に危機感を強めたスパルタは、その同盟都市とともに、アテネに戦いを挑む。これがペロポネソス戦争(前431-404年)である。結局、スパルタが勝利するが、その覇権は長続きせず、前371年にはレウクトラの戦いで、前362年にはマンティネイアの戦いでテーバイに敗れる。テーバイの支援を受けたスパルタの奴隷ヘロータイは、メッセニアにメッセーネ市を創設、また、アルカディアの都市はメガロポリスという新都市を首都として反スパルタ同盟を結成する。
前四世紀後半、ギリシャの北部にあるマケドニア王国がフィリッポス二世王の支配の下、勢力を伸ばし始める。脅威を感じたギリシャ諸都市はマケドニアに戦いを挑むが、前338年、カイロネイアの戦いで敗北し、その勢力下に入る。前336年、フィリッポスが、アイガイの劇場で暗殺されると、息子アレクサンドロスがその跡を継ぐ。
ヴェルギナで発見された、フィリッポス二世のものとおぼしき墓や、マケドニアの首都であるペラに建築された宮殿は、当時のマケドニアの富裕さを示している。
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