
ヴィコピサーノは、ピサから20キロほど離れた場所にある中世の町。城塞があって、中に入ることができる。
十六世紀まで、この場所はアウセル川とアルノ川が合流する場所にあり、高台の上から、水上交通を監視できた。このため、ここは、ピサの防衛のため重要な場所だった。16世紀の半ば以降に行われた度重なる治水工事で、ヴィコピサーノのこの価値は失われた。

これは、城塞に上る道から撮影した平野の写真。
ヴィコピサーノは、十世紀、オベルテンギ家という貴族に支配され、最初に城塞(アウセリッソラ城)を建築したのもこの貴族であったらしい。
十一世紀、この場所の支配はピサの司教に移った。

これは、城塞に入る手前の中庭。
十三世紀、城の所有は、ピサ司教からピサ共和国の手に移り、共和国は、ヴィコピサーノの防衛を強化、軍隊を駐屯させた。
十三世紀の末から、ピサ共和国の勢力は衰え、1406年、ヴィコピサーノはフィレンツェ共和国の支配下に入る。フィレンツェは、この場所の防衛を強化するためさらなる投資をおこない、フィリッポ・ブルネッレスキに委嘱して、あたらな城塞を建築させた。

城塞の中庭の壁を飾る紋章。
十六世紀の半ばには、治水工事の結果、アルノ川の流れが変わり、ヴィコピサーノは、戦略的要所としての地位を失う。
その後は、周辺で農業をおこなう人々の小集落として存続した。

これは、城から下に降りてゆくための階段。
詩人シェリーが、一時ピサに住んでいたバイロンを訪れたことはよく知られているが、シェリーに同行してきた妻で、『フランケンシュタイン』を書いたメリー・シェリーは、このヴィコピサーノも訪れている。

ヴィコピサーノには12もの塔があり、これはその一つ「トッレ・デル・マスティオ」。

一般的な塔には門が二つだが、この塔には門が四つあり、四門の塔と呼ばれる。

これは、市壁の一部。
ヴィコピサーノへは、ピサのサンタントニオ広場からバスが出ている。
ここには、バールがいくつかあり、サンドイッチなどは食べることができるが、レストランはないので、ちゃんと食事をしたい場合にはブーティまで足を伸ばす必要がある。
参照リンク
ページ・トップに戻る