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サモスの歴史


 サモスという名前の起源は、フェニキア語で「高い」を意味する言葉から来ているといわれる。また、ギリシャ神話では、アルゴス号の乗組員の息子の名前が起源だということになっている。

 前3000年代には既にサモスに人が住んでいたことは、ピタゴリオから発見された新石器時代の遺物から知られている。

 やがて、イオニア人(対岸の小アジアに住むギリシャ人)が植民する。前八世紀から七世紀には、逆にサモスが対岸の本土に土地を所有するようになり、本土側にあるプリエーネとの間で領土争いが繰り広げられた。

 ヘロドトスは、サモス人のコライオス(Kolaios)という人物がヘラクレスの柱(現ジブラルタル海峡)以遠にまで旅行して、イベリア半島のタルテッソスという場所に上陸して、そこから巨万の富を持ち帰ったと伝えている。これは、前638年ごろの出来事と考えられている。

 前六世紀の初めには、土地所有貴族「ゲオモロイ - Geomoroi」が僭主デモテレス(Demoteles)を放逐して、サモスを支配するようになった。

 前540年ごろ、アイアケス(Aiakes)の息子ポリュクラテス(Polykrates)が、兄弟パンタグノトス(Pantagnotos)とシュロソン(Syloson)と共に僭主制を確立する。間もなくポリュクラテスは兄弟を追放し、独裁を敷く。この時代にサモスは繁栄の頂点に達した。彼は強力な海軍を組織して、近隣の島を支配下に入れ、北アフリカのキュレネやエジプトのアマシスと同盟を結んだ。ヘロドトスは、ポリュクラテスの時代に建設された、エウパリノスのトンネル兼水道、港の船着場、ヘラ神殿の巨大さを称えている。しかし、ポリュクラテスは前522年、ペルシアのサトラップ、オロンテスの罠にかかって捕らえられ、対岸で磔にされた。六世紀の間にサモスは数多くの植民市を建設している。特にプロポンティスには複数の植民市を、またシチリアにはザンクレ(Zankle)を建設した。

 ポリュクラテスの死後は、追放されていた彼の兄弟シュロソンがペルシアの支持を受けてサモスの僭主となる。しかし、市民の中には反ペルシャ派もおり、サモスはイオニア植民市の反乱に参加する。ところが、前494年、ラデ(Lade)の海戦で、サモス海軍はペルシャに寝返り、サラミスの海戦ではペルシャ側について戦っている。最終的にはミカレ(Mykale)の戦いでクセルクセスに叛旗を翻した。

 前479年から440年の間、サモスはアテネ主導のデロス同盟で独立メンバーとしての地位を保ったが、440年に反乱を起こしてペリクレスのアテネに破れる。前440年から412年の間のある時点でサモスは寡頭制下に置かれるが、これはアテネによって組織された体制かもしれない。ペロポネソス戦争ではアテネ側で戦うが、404年、スパルタのリュサンドロスに敗北。前394年にはアテネのコノンが再び島を獲得するが、391年には交渉の結果スパルタ側に譲渡された。前365年、アテネは再びサモスを征服して住民を追放し、アテネの植民地とする。

 前321年、アレクサンダー大王が発布し、その死後に、執政ペルディッカスが発効させた勅令によって、アテナイ人がサモスから追放され、サモス人はようやく故郷に帰ることができた。前319年には、新しい執政ポリュペルホンが、この決定を覆す法令を発布しているが、実行はされなかった。前321年、アンティゴノス・モノフタルモス(片目のアンティゴノス)が小アジアのイオニアを占拠し、その後前306年までのいつかにサモスも彼の支配下に入った。アンティゴノスが死ぬとサモスはトラキアのリュシマコスの支配下に入るが、前281年リュシマコスがコルペディオン(Korpedion)の戦いで破れ、殺害されると、プトレマイオス朝エジプトの勢力下に入った。サモスのカッリクラテス(Kallikrates)は、プトレマイオス朝の海軍司令官の地位に就いている。前259年から246年の間、サモスはアンティオコス二世の支配下に入るが、それを除けば、前197年までプトレマイオス朝の支配下にあった。その年、サモスはマケドニアのフィリップ五世に占領されるが、その後間もなくしてペルガモン王国の支配下に入り、前129年にローマに譲渡された。

 前82年、キケロの弾劾演説で有名なウェッレスがサモスの財宝を略奪し、前70年から67年にかけては海賊の被害を受けた。前39年にクレオパトラと共に島にやって来たマルクス・アントニウスからも略奪を受けている。

 前20年から19年にかけての冬を島で過ごしたアウグストゥスは、自治を回復し、ローマが略奪した財宝の一部を返還した。後70年、ウェスパシアヌス帝はサモスの自治権を撤回し、Provincia Insularumの一部とした。ガイウス(カリグラ)帝は、ポリュクラテスの宮殿の再建を完成させたといわれる。

 ビザンツ時代のサモスはキュクラデスのエパルキアの一部となった。960年、ニケフォロス・フォカスはサモスからクレタ島制圧に出発している。

 1453年トルコ人に征服された後、ヒオスからサモスを支配していたジェノヴァ人が島民を退去させ、また、ヴェネツィアとトルコの海賊行為が横行したため、島はほとんど無人となった。しかし、1562年、トルコの海軍提督キリチ・アリ・パシャ(Kiliç Ali Pasha)がスルタンの許可を得て、ジェノヴァ人と共にヒオス島に逃げていた元サモス住民と帝国領内のギリシャ正教徒を集めて再入植させ、主教に統治させた。1772年から74年の間にはロシアに支配されている。

 サモスは1821年からギリシャ独立戦争に参加し、何度も勝利を挙げたが、戦争が終わると、交渉の結果、自治に相当する数々の特権を付与されてトルコの支配下に戻った。ギリシャ人の貴族が支配者となり、その初代はステファノス・ボガリダス(Stefanos Bogaridas, 1834-59)である。

 1912年、ヴァシーに停泊していたトルコ艦隊はイタリア海軍の爆撃を受け、サモスはギリシャに併合された。1923年には、トルコとの住民交換で小アジアから逃れてきた人々が多く住み着いた。第二次世界大戦中、最初はイタリアに、次いでイギリスに支配されたが、ドイツ人が激しい爆撃をおこなって島を奪取した。


参考文献


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